夜。
手元を照らすのは、重厚な造りの机に置かれた凝った装飾を施されたランプの明かりと、窓から入る月明かりだけ。
ツナは、幾分緊張した指で筆を取った。
目の前にしているのは、ボンゴレのトップに就任してから、何年もかけて行ってきたある活動の集大成だった。
緊張するのもいたしかたないものだと思う。
やっと、やっとだ。
この書類にあと何箇所かサインをすれば、それで終わる。
やっと、だった。
そのとき。
「 正気ですか?」
薄暗い部屋の隅から、ぽつりと声がした。
誰もいるはずのない空間だった。
ましてや、巨大マフィアボンゴレの、しかも党首の部屋だ。
許可なく誰も入れるはずはない。
しかし、その影はまるで闇が凝り固まったかのように、突然そこに現れた。
ツナは、一瞬だけ指を止めたが、また作業に戻った。
「あなたがやっているのは、獰猛なケモノの檻の鍵を開けるようなものだ。開けた瞬間に喰いつかれるかもしれないのですよ?」
コツコツ、と音を立てて暗がりから進み出たのは、美しい少女。
艶やかな黒髪を持つ少女の瞳は、本来なら濡れたような黒だったが、
今は紅と蒼。
いつも着けている髑髏マークの眼帯は、外されていた。
「…………………そうだな」
「分かっているのなら」
「お前の意見は聞かないよ」
突き放したような言葉に、少女は唇を噛んだ。
ぎらぎらとした眼差しが、指を動かす青年を睨みつける。
「恩を売るつもりですか。しかし、ケモノには恩を感じる心もない」
「恩なんて売るつもりはない」
「では、同情ですか?」
「そうかもしれないな」
「………………やはり君は、どこまでも甘い」
吐き捨てるように少女は呟いた。
「僕はあなたの大事なファミリーに害を成す存在ですよ。牢から出したからといって、君の配下につくなどと甘い夢を見ているのなら、君は愚か者だ」
暗い笑み。
「少しずつ、初めは分からないように、痛みを感じないように。けれど確実に、命を削り取ってさしあげます。ガリガリとね?」
ツナは、溜息をついた。
「何を怯えているんだよ」
「 何を、」
「そうだよ、俺はお前の言うとおり甘いよ。愚か者だ。いつまでたってもダメツナだ」
振り仰いだ青年とまともに視線を合わせ、少女は怯んだように顎を引いた。
「同情でもなんでもいい。でも、俺はお前を助けるよ、骸。ファミリーを傷つけさせたりは、絶対させないけど」
(お前は、もうそんなことしないと、俺は思うけどね)
口にしない思いは超直感ではなく、沢田綱吉個人の確信だ。
ツナの薄茶色の瞳は、骸のオッドアイから逸らされずに、まっすぐに射抜いた。
「霧の守護者が必要なら、クロームで充分でしょう。彼女の力に不満が?」
「ないよ。クロームはよくやってくれてる」
「ボンゴレ十代目に就任して何年も経つというのに、まだボスとしての自覚がないのですか?君の行為はまるで自傷行為だ」
「まあ、他の幹部たちはいい顔しなかったけどさ」
でも、反対はされなかった。
むしろ、こうなると思ったという顔をされた。
「 僕は、マフィアを憎む!」
「俺もお前を許さないよ!」
怒鳴り声に、応じて叩きつけるように声を荒げれば、少女の肩がビクリと揺れた。
「俺は、お前のやったことを許さない。忘れない!お前が、俺の仲間にしたこと、ランチアさんを操ってランチアさんのファミリーにしたこと。全部、許さない」
静かに、言い聞かせるように言うと、骸の瞳が戸惑うように翳った。
「では、なぜ 僕を助けるのですか」
その声が、なんだか途方にくれて、心細い子どものようだったので。
ツナはそっと手を差し出した。
よろよろと、骸がその手に両手で掴まる。
「俺が、助けないで誰が助けるのさ」
見上げた赤と青の瞳は、やはり綺麗だと思った。
「お前みたいな問題児、俺が動かなきゃずっと水の中だぜ」
「……………う……」
ぎゅっと繋がった手を握る。
「こうして触れてても。この体はクロームのだろ」
瞳を覗き込む。
「この二つの目も、やっぱり本当はお前のじゃないだろ」
「 そんなの、」
「お前に、たくさん綺麗なものを見せてやりたいよ」
「……」
「朝日を浴びた街も、夕暮れの空も。満天の星も。桜の春、鮮やかな夏、紅葉に染まった秋、寒い冬」
「お前自身の目で、お前自身の体で感じればいい」
「俺の隣で、自分自身の言葉で喋ればいい」
「どんなこと言われても、俺くじけないと思うよ?ここ数年で大分鍛えられたし」
「笑って、怒って。喧嘩して、仲直りしてさ」
「この大空の下を、自由に歩けばいい」
言葉を重ねるごとに、いつしか骸の瞼は、うつらうつらと閉じかけてきていた。
体に限界が来ているのだ。
まるで縋るように、手に力が込められる。
「 に、」
「ん?」
「いっしょに、いてくれますか」
「うん」
「ず、 ずっと」
「ずっと」
瞼が閉じる最後の瞬間、骸は微かに微笑んだ。
次に瞳が開いたとき、その瞳の色は黒に戻っていた。
「…………ボス、ありがとう」
万感の思いを込めた感謝の言葉に、
「ううん」
ツナは、笑った。
明日、一緒に迎えに行こう。
そして、新しい日々を始めるのだ。
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