自分が甘えきっているという自覚はあった。
「髪も洗ってくれよー」
「はああ!?」
「いいからいいから」
呆れたように見る稲葉に、ニヤリと笑ってみせる。
呆れられてもしょうがない。
明らかに自分の態度は、生徒に、しかも男子に対するものではない。いくつだ、という話だ。
しかし実際に、体がだるく力がはいらない。頭もぼーっとしてはっきりしない。
まあ、だからといって頭ぐらい洗えるが……だから、これは「甘え」なのだ。
稲葉はぶちぶち言いながらも、しょうがないなとため息をついてシャンプーを手にとった。
いい子だ。
「まったく、ほんとクリ相手にしてるみてえ」だの、「俺いったい何やってんだか……」など、ボソボソとなにやら呟いていたが、
「ほら!頭うつむけて!目ェつぶれヨ!」
わしゃわしゃ~っと多少乱暴に髪をかき混ぜられる。
途端に、泡が溢れて伝って落ちる。
触れる指先が、気持ちいい。
(……結構うまいな、稲葉……)
男らしく力まかせだが、繊細な指使いで、なんだか慣れている感じがする。
うっすら目を開けると、稲葉の足が目に入った。
足首、細ェな。
ふと、そう思った。
男にしては体毛が薄い。細く引き締まった、足。
俺の手で、掴めてしまえそうな。
無防備な。
( ああ、マズイ。な)
マズイ方向に思考が向かっているのが分かっているのに制御できない、ああ、ヤメロって。
ぐるぐると回る、思い。
そのとき、
「じゃあーー目つぶれよ~~」
稲葉がのん気に言うと、
思いっきり豪快に頭からお湯がぶっかけられた。
「ぶわっ」
「ええ!?なんだよ、目か鼻にお湯入ったか?」
「い、いや」
目を上げると無邪気な目とかち合って、つい逸らしてしまう。
「? なんだよ」
「………稲葉、なんか慣れてるな、シャンプー」
「ああ、クリが………ええと、げ、下宿先の子…を、よく風呂入れてやってるから」
「へ~」
偉いな、とぐりぐり頭を撫でてやると、くすぐったそうに首をすくめた。
「また、洗ってくれよ~気持ちヨカッタし」
「えええ~~~!?あんた、何歳なんだよ!ってーか教師だろ!」
「まあまあ、いいだろ減るもんでなし」
「あ、あのなあ~~……っ」
そう、これは甘えだ。
わがままだ。
そして、止められない衝動なのだ。
こうして、俺は半ば無理矢理、叶うかどうかも分からない約束を交わした。
触れた指先が離れるのが、なんだか、もの寂しく感じたから。
「獄寺君、あれは何の声?」
「あれは、鳥の鳴く声です」
「獄寺君、これは何のにおい?」
「これは、風が運んだ、潮の香りです」
俺の目を覆った手が、囁く声がどこまでも優しくて甘い。
『10代目、10代目、
俺は貴方のためなら、いくらだって非情になれます。
誰を傷つけても殺してもこの手が血に汚れてもかまわない。
だけど、
俺の成した光景を貴方が見るのは、少し辛い。
貴方が、そんな俺を見ることが怖い。
………きっと、貴方は冷たい視線一つで俺の息の根を止めることが
できるから
だからどうか、
10代目、目を閉じていてください』
本当はウソだなんて分かってる。
これは風の運ぶ潮の香りではない。
血と、硝煙と、火薬のにおい。
あれは、鳥の鳴き声ではない。
あれは、爆音と悲鳴と最後の祈りの声。
けれど、目を覆った手が少し震えているのを知っていたから。
目は閉じたまま。
(だけど、
どうか覚えていて。
君の罪は、
俺の罪)
修学旅行の出来事を話す夕士を穏やかな顔で眺めつつ、その実長谷の内面はまったく穏やかでなかった。
むしろ暗雲がたちこめていた。
(女生徒にナイフで襲われたうえ、悪霊に羽交い絞めにされただあ!?)
ギリッと歯噛みする。
俺の目の届かないところでそんな危ない目に合うなんて、怒りと焦燥と心配で脳がぐつぐつ沸騰しそうだった。
というか、本当は俺のいないところで夕士が楽しそうなのも嫌だった。
修学旅行なんてくそ面白くもない。
俺の見ていないところで、夕士が傷つくのも、楽しそうなのも、嬉しそうなのも気に食わない。
そんな顔を見せるのは、俺にだけでいいのだ、本当は。
(いっそ閉じ込めてしまえればいいのに)
そう思いつつ、顔は微笑みを浮かべる。
さも、夕士の語る思い出話を面白そうに聞いているように。
しかし、
「それで千晶がさ~」
ピクッ
思わず、口の端が引きつる。
千晶。
最近、しょっちゅう夕士の話に出てくる名前だ。夕士の担任の新任教師。
(千晶千晶ちあきと忌々しい……!!)
ほぼ毎日その名が出てくるのではないだろうか。
「……稲葉は、よっぽど千晶先生が好きなんだな」
「なっなんだヨそれ~」
なぜそこでほんのり赤くなる!!
そんな顔も可愛いが!いやそういう問題でなく!!
「なんだよ、照れんなよ」
そんな内面などおくびにも出さず、からかってみる。
「いや、でも千晶ってあんなカッコよさげなのに、以外と手がかかるんだゼー」
「だって、風呂にまで入れてあげたりしたし」
ビシイッ
長谷の持つ湯のみから異様な音がした。
具体的に言うと、何かがひび割れるような。
しかし、鈍感な夕士は気付かない。
「あれ、今なんか変な音した?」
「さあ~?なんかしたっけ?」
「んーラップ音かナ」
あはは~と和やかに微笑む二人を、
周囲の大人たちがニーヤニヤとたいへん面白そうに眺めているのだった。